僕らはあとどれくらいで大人になるんだろう
影遊び/CatChu!
かつての僕は、大人だった。正確に言えば、大人なんだと思っていた。
受験に失敗したから音楽はおしまい。そう言って達観しようとしていた澁谷かのん。自分は選ばれない星の下に生まれた存在。そう言い聞かせてクールな自分を作ってきた平安名すみれ。可愛くない自分は応援しているだけで十分。そう思い込んで平穏な生活を守ってきた米女メイ。
その誰もが聞き分けのいい”大人”になっていくはずだった。
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僕もそうだった。受験で第1志望を逃した自分の能力の限度を知った気になって、世の中そういうもんなんだな、と悟った顔をしていた。特別じゃなくていい。平穏に、多くを求めず、ささやかな幸せを享受していければいい、と。
ラブライブ!に出会って、夢を追うことの意味を教えてもらった。夢を追うことの価値への信頼は強固なものになっていった。
それと同時に、「夢」というものが世の中では珍しいものであることも、なんとなく知っていった。「目標」という名であちこちに転がってはいても、それを「夢」と名付けてしがみつく人間は少ない気がした。
「将来の夢はなんですか」
小学校でよく見かける質問文。これに対して大人は何と答えるのだろう。いまが将来だから、答える必要はないのだろうか?
答えようとしなくなった大人をこれまで何人も見て来た。何故答えようとしないのかはあまり良く分からない。毎度毎度、目を逸らしている人や、逸らすのが当たり前になりすぎて夢の見方を忘れた人もいることだろう。本当は答えを持っているが、僕には教えてくれなかった人もいるかもしれない。
何にせよ、夢を口にしない人間、聞き分けの良い大人というものが、多かれ少なかれ存在するのだと思った。
そしてそれは他ならぬ、かつての自分でもあった。
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夢を追うことは、いわば子供がすること。
一人、また一人と、夜の公園を出て、帰路に着く大人を横目に、影遊びを続ける。
門限があるわけではない。誰に責められるわけでもない。それでも、また一人、子供の遊びを止めて、どこかへ帰っていく。
かつては大人でお利口だった僕らには帰る場所があったらしい。でも、夢を追いかける内にいつしか迷子になり、帰る場所が分からなくなった。かつて思い描いていた平穏な暮らしとは何だったのか。幸せとは何だったのか。夢を追えば傷つくのだから、その傷が生まれない平穏は幸せだったのだろうか。
しかし「まだ帰れない」という感情だけは確かに存在している。仲間と共に影遊びを続け、なりたい姿を影で作ってみて、夢を描くことは止められない。それが自分を定義する礎であったり、あるいはここまで来た自分を信じたいという気持ちがあるからだ。いつか大人になってしまうとしても、いまはまだ止められない。
僕じゃなきゃできないこと
どれだけあるんだろう
オルタネイト/CatChu!
結局、誰にとっても正しい生き方などないのだから、全部僕次第だということは分かっている。やることはもう決まっているのだ。ただ、大人というものが年齢に従って”成る”ものだとすれば、これまで自分が見て来た”大人”になってしまう時がいつかやって来るのだろうか。そういった「変化」への漠然とした憂いを君と分かち合っていたいだけだ。ただ遊んで、慰めあっていたいだけ。
気がついた時には変わってるものなの?
影遊び/CatChu!
夢を叶える者がいれば、その輝きから目を逸らす者もいる。夜空で輝く月や星があれば、それに照らされ影を作る子供がいる。さながら子役時代の平安名すみれのようだ。
しかし、その影があるからこそ、あんな姿やこんな姿を想像して遊ぶことができる。影そのものは輝いていなくても、自分の姿かたちをしているのだから、どんなものにでもなれる気がしてくる。
影遊びを止めて帰っていく大人たちは、行くあてがあるのだろうか。それとも単に星の光が眩し過ぎて、公園から姿を消しただけなのか。
そんな彼らにほんの少しの疑念を抱きながら、公園で遊び続ける僕らであった。
ねえ誰もいなくなった公園
ひっそりとただ明日へ向かっていく
まだ帰れない
影遊び/CatChu!