ねっちりとした今日までの時間

ラブライブ!シリーズやその他のことについて書こうと思います

青春の生き苦しさ

 DOLLCHESTRAの楽曲「青春の輪郭」を聴いて思ったことを。

 

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 青春というものの性質を考える時に、僕が影響を受けているのがサルトルのこの言葉だ。

 

青春とは、奇妙なものだ。 外部は赤く輝いているが、内部ではなにも感じられないのだ。

 

 ラブライブ!サンシャイン!!の「輝き」もこれと同じ性質を持っていると思っていて、1つの到達点から振り返った時に初めてそこまでの過程に輝きを見いだせるというのは、まさに「内部では感じられない」という性質だと表現できると思う。

 

 青春の輪郭で歌われている「青春」もこれに当てはまるのだとは思うが、僕がこの楽曲を聴いた時に感じるのは、振り返った時の「青春」の尊さというより、むしろ青春の真っ只中にいる人間の息苦しさの方だった。

 

ペダルを強く踏み込んでも
追い越すことは出来ずに終わったんだ
Ah- 眩しすぎて嫌いな日々だ
青春の輪郭/DOLLCHESTRA

 

 眩しすぎて嫌いだ、なんていう表現は、(大人が)思い出に耽って青春の煌めきに浸っている瞬間に出るものではないと僕は思う。この歌を聴いて青春の煌めきを感じる事がおかしいと言いたいのではないが、歌っている2人の心情自体はそれとは違うところにあるのではないか、ということ。

 

 この楽曲を理解するために僕が手がかりにしたのは「アイロニー」と「自己満足」の2つ。ここから感じたのは、(少なくともこの楽曲で歌われている)青春は「自分と他者の比較」を無くして語り得ないということ。

 

 「自分らしさ」とか「あなたらしさ」という標語がある。時々こういった言葉が何かを諦めることの免罪符になっている場面に遭遇するが、これをバッサリ切り捨てるのがこのフレーズなんだと思う。

 

これこそがアイロニー
誰かと自分比べない方が
楽かもしれないと
認めるなど有り得なかった
青春の輪郭/DOLLCHESTRA

 

 幸せでありたい、充実した生活を送りたい、自分らしさを見つけたい、といった願いを叶えるのなら、誰かと比べない方が”楽”であることは間違っていないのだと思う。でもそれを認めたくないのが、青春の1つの側面だと思う。

 

 なぜ認めたくないのか。それは、他の誰でもない自分自身が世界から認められる主人公でありたい、という気持ちがあるからだと思う。自分の中にある青春という漠然とした概念は無から生まれた訳ではなく、誰かしらの理想的な”青春ストーリー”を参考にすることで生まれるのだと思うから、少なくともその誰かしらと同じくらい自分も輝けているという自負が欲しくなる。

 

 世界に自分を認めさせなくちゃいけないから、「青春を目指す旅」は決して「自己満足の旅」で終わるような類ではないと、いつの間にか信じているわけである。かつて自分が照らされた理想の青春像や、隣を走っている誰かに負けたくないし、比べない方が楽だなんてもってのほかだ。

 

Ah- 胸を焦がすほどに必死だった数センチでも
通り過ぎ だんだん過去になってしまう
ペダルを強く踏み込むのは
追い越したこと嬉しく思ったから
青春の輪郭/DOLLCHESTRA

 

 走り続けるうちに、部分的には理想に追いつく場面だってあるだろう。念願を叶える瞬間は、沢山あるようには思えないが、1つ2つはある。

 

 あれ、でも何かがおかしい。追い越したはずなのに、その事がただただ遠い過去になってしまうだけで。思った以上にあっさりしていて、満たされないこの違和感は一体。

 

 こうして走り続けて来て、はたと気付くのだと思う。最終的に自分を認めるのは自分でしかないのだということに。

 

 大会や試験などによって、客観的に承認を得たように見えても、最終的にそれを受け入れるかどうかはやはり自分に委ねられている。他者からの承認が不要というのでは決してないと思うが、そういうものをきっかけや拠り所として、自分を認めて行くほかないという考え方が生まれる。

 

Ah- 腕を伸ばしても届かないよ数センチでも
最初から全然違うものだった
つまり青春を目指したはずが
自己満足の旅で終わりそうで
青春の輪郭/DOLLCHESTRA

 

 手を前に伸ばして掴もうとしていた「青春」は、自分の胸の中という真反対のところにあることに気付き、その変わり果ててしまったような「青春」の姿に戸惑いすら覚える。

 

 自分で自分を認められなかったから、自分じゃない誰かに認めて欲しかったのに。自己満足なんていう独りよがりでちっぽけなものじゃなく、この世界に自分を認めさせたかったのに。自己満足こそが本質なのかもしれないと悟って、胸が苦しい。

 

自転車を降りて
見えた空は雲ひとつ無い青だ
悲しいくらいに
青春の輪郭/DOLLCHESTRA

 

 自分を認めるということ、たったそれだけで、他者との比較を礎にしていた「青春」と「生き苦しさ」が一気に晴れ渡りそうなことに気が付いて。皮肉にも爽快さを覚えてしまう胸の内と見上げた大空には、カタルシスと寂しさが入り混じって涙が出そうになる。

 

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 こうして積み上げてきた時間が、他者から見ると、これまた誰かにとっては理想の「青春ストーリー」に見える訳である。だから、僕たちファンから見ればDOLLCHESTRAの「青春」の輪郭は見るに容易いし、彼女たちの走り抜けた距離は無駄ではないよねと口にするのは簡単だと思う。

 

 しかし、本人たちからすれば息苦しさの中で走り抜けた距離の価値を、せめてもの思いで叫ぶ歌なのだから、結局僕らはDOLLCHESTRAという2人の存在を外から眺めている限り、青春の性質上2人に共感できていないことになっているのだと僕は思う。

 

 大人になったファンが、高い視点から2人を眺めて感じるのは「青春の煌めき」で、ファン自身の走り抜けた距離を思い出して感じるのは「当時の息苦しさ」という具合なのだろう。だから、走り抜けた距離が自分にあるかどうかが、「青春」の構造上、この楽曲の解釈を二分しているんじゃないかと思う。