こんにちは、ネッチです。
この記事では楠木ともりさんの1stEP「ハミダシモノ」に収録されている楽曲、「僕の見る世界、君の見る世界」について書いていこうと思います。タイトルには考察などと大層なことを書きましたが、実際には私が歌詞の一つ一つについて思ったことを書き連ねていくだけの記事になっています。半ば勢いだけで書き始めているため、読み辛い箇所もあるかと存じますがご了承ください。
備忘録的な側面があるものであり、これが正解、というものではありませんし、ここに書かれた以外の解釈もあると思っています。「ここってこんな風に読めるんじゃない?」「こんな意味を見出すと面白いよね」といったことの1例をお示ししているとお考え下さい。
この記事が皆さんの楽曲の理解や普及の助けになれば幸いです。また、楠木ともりさんの応援に繋がればな、とも思っています。
本題に入る前に1つ。楠木ともりさんご本人はこの楽曲「僕の見る世界、君の見る世界」について随所でコメントを残されています。この記事では
- 1stEP「ハミダシモノ」リリース時のインタビュー記事
https://news.yahoo.co.jp/articles/ea3b9e664dfb85f18aa48aa2845d0c77c5569bd2?page=3
- 1stEPに付属するライナーノーツ(数行の楠木ともりさん執筆の楽曲解説文)
を参考にして書いております。ライナーノーツについてはインターネット上で公開されていませんが、お持ちで無い方にもお楽しみいただける記事になっていると思っております。
まだLyric Videoをご覧になっていない方はぜひご覧下さい。
楽曲全体を貫くテーマ
上述のインタビュー記事より
――なるほど。すごい感性ですね。歌詞の内容としては、憧れと自分自身とのギャップを歌っているわけですが、…
(中略)
――自分にとっての憧れってどういうものですか?
歌詞カードにセルフライナーノーツを書かせていただいたのですが、そこで「憧れは時に呪いのようなもの」と書きました。(中略)一度憧れてしまうとまるっきり同じ人になろうとして、どんどん自分を捨てていってしまうところがあって。そのことに気づかず、ずっと自分の周りにまとわりついてくるようなものだなと思って。
このインタビュー記事から、楠木ともりさんは「憧れの存在と自分」というテーマについて歌っておられると考えています。もちろん、製作者の意図を離れ、楽曲単体で考えれば別の解釈の仕方が可能ではありますが、本稿ではこのテーマを前提として考えていきます。
また、この曲では憧れの存在に対する自分(この曲の主人公的存在)が登場していますが、この存在のことを「彼」と呼ぶことにします。(これに対し、後述しますが、憧れの存在を「君」と呼びます。)
歌詞1番
可笑しなくらい大きな鞄に
飴玉一個 扉開ける一歩
まず、曲が始まって最初の一言目ですが、なにやら彼は鞄を持ち扉の外へ向かおうとしているようです。
1行目を丁寧に考えると、「可笑しなくらい」は「大きな」に掛かっています。つまり鞄の大きさが荷物の量に不釣り合いなくらい大きく、そのため可笑しい、と言っています。ということは、鞄の中は空っぽ(に近い)状態であると推測できます。
ここで、先程のテーマと照らし合わせると1つの解釈(というよりもはや妄想)が生まれてきます。 それは、「鞄=彼の心」のようなものであると捉えると、憧れの存在に比べて自分は空っぽなんだ、という彼の心持ちを象徴した1文であると考えられないでしょうか。
「飴玉一個」に何か意味を見出すとすれば、これからの旅のおとも、もしくは装備のようなものであると思います。飴玉を1個しか持たないわけでありますから、「そんな装備で大丈夫か?」となりそうですが笑。冗談はさておき、ここでは「先の心配ばかりして色んな装備をそろえるんじゃなく、軽装備でふらっと出掛けてみよう」という彼の心情を表しているのでしょう。
電車に乗りたい気持ち抑えて
歩いてみたい 景色を見たい
さて、この曲の解釈において最も重要と言っても過言ではない単語が登場しました。そう、「電車」です。歌詞の文字通りの「電車に乗りたいけど今日は徒歩だ~」ということ以上に深い意味が込められています。
この曲において私は「電車(に乗ること)」=「憧れの存在を追いかけること」であると考えています。
まず、当たり前の話ですけど、基本的に電車って前の電車と全く同じレールの上を走っていきますよね?(分岐は除きます。)ですから、電車に乗るというのは自分の前を行く人=憧れの存在を追いかけることと考えてもよいでしょう。また、上述のインタビュー記事でも「まるっきり同じ人になろうと」する、とありましたので、同じレールの上を走る電車はイメージとしてぴったりなわけです。
そして彼はこの日電車ではなく徒歩だと言っているのです。つまり、憧れの存在を追いかけるのではなく、自分の道を行くのだ、という気持ちが窺えます。(徒歩は自分で縦横無尽に経路を設定できますからね)
道は間違えてない 時計もずれてない
はずだった はずだった なのに
この部分の歌詞は2通りの解釈があるかもしれません。まず1つ目は
- 道を間違えず、時計もずれていないのは歩いている時の話である
という解釈。そして2つ目は
- 道を間違えず、時計もずれていないのは電車に乗っている時の話である
という解釈。2つ目の解釈は扉を開ける前の日々の回想として歌詞を読んでいます。この時点ではどちらもありえそうですよね?ここでももちろん「電車に乗ること」と「歩くこと」は上述の通り憧れの存在を意識して解釈していきます。
では、私はどちらの解釈で考えているかというと、1つ目の方です。Lyric Videoをご覧いただくと分かると思うんですけど、この歌詞の部分で丁度カーブミラーが映っているんですよね。で、電車に乗っている時にカーブミラーを見る人って殆どいない(と思います)し、歩いている時の方が活用する可能性は高いですよね。ということで、Lyric Videoと合わせて考えると、ここでは1つ目の歩いている時の話であると考えて良いと思います。
さて、彼は自分の道を歩き、道は間違えず時計もずれていない。はずだった。なのに
僕の見る世界は伸びきっている
というわけなんです。「伸びきっているってなんだよ」と思ったそこのあなた。大丈夫です。この言葉にはなんと楠木ともりさんご本人のご説明がございます。
――サビの歌詞に<僕の見る世界は伸びきっている>というフレーズがあって、<伸びきっている>という表現が独特ですね。
キーワードとして全体的に電車を比喩していて。電車の車窓から見る景色ってブワ~っと流れていくので、横に伸びているように見えるじゃないですか。自分が電車に乗っていないとしても、目の前を通る電車の様子も横に伸びていくように見えるので、そこからヒントを得ました。あまりに一瞬で一個一個をしっかり把握することはできない、自分を見失っているような状態と言うか、周りに置いていかれてしまうような気持ちを、<伸びきっている>という言葉で比喩しました。周りは進んでしまって、自分は止まったままという感じです。
(インタビュー記事より)
うーん、天才か?「伸びきっている」のたった一言でこんなにも複雑な心情を表現してしまう、そのセンスに脱帽です。
そして続けて、もう一つご覧いただきたい一文があります。
「僕の見る世界」は、弾力性や柔軟性を失ってしまったのではないか?
かみなりひめさんの「伸びきっている」についての解釈ですが、表現が非常に完結で的を得ているなあ、と感銘を受けました。私の「伸びきっている」の解釈はこのお二方の解釈から成り立っているため、ここでご紹介させていただきました。
私なりの解釈を付け加えるとすれば、世界が伸びきっているということは、これ以上伸びることがない、つまりこれ以上世界が広がることはない、ということです。また、例え話ですが、色付きのゴムを伸ばすと色が薄くなったように見えますよね。てことで、世界が色鮮やかさをも失っている、とも解釈できそうですね。
この「伸びきっている」の説明を一言で説明しようかと思いましたが、あえて明言を避けて幅広いイメージを含ませることにしました。そのイメージとは
- 周囲の状況を把握できず、自分はどうしたら良いのか分からない
- 周りに置いていかれることに対し、焦燥感を感じつつも諦めつつある
- その結果、世界の色鮮やかさは失くなり、広がっていかない
というようなことであると感じています。
「伸びきっている」のイメージが掴めたでしょうか?それでは次の1節へ進んでいきましょう。
電車の風に吹かれて落ちる涙も
「電車の風に吹かれ」るということは涙を流した人は電車の外にいたということですよね。(車内の人から車窓の外に向かって涙が落ちるシーンを思い浮かべるかもしれませんが、それは電車が通った時に出来る風ではなくエアコンの風なり重力なりに引っ張られて落ちているだけでしょう。落ちて吹かれるのではなく、吹かれて落ちるですから。)ちなみにLyric Videoで電車が外から描かれていることもその根拠の1つです。
この涙の原因としては色んな感情を考えられますね。憧れとのギャップを感じて自分の不甲斐なさを嘆いたり、憧れのようには上手くいかないと感じ絶望するなど。
君の見る世界にはいないでしょう?
そして、そんな涙は憧れの君の世界には無縁のものなのでしょう、ということです。憧れの存在っていつでも格好良くて、涙なんか流していないように見えますよね。(そう見えるからこそ憧れるのかもしれません。)
車窓から覗く 君が、眩しい
成功が既に約束されたような輝かしいレールの上を進んでいる(ように見える)憧れの君が描かれています。「眩しい」という表現は憧れを表す際に用いられることがある表現ですね。Lyric Videoでは、電車を眺める彼の姿が描かれています。
ちなみにですが、この曲全体を通して読点(「、」)が用いられているのはこの一節と2番の歌詞の対応する一節のみです。そして、1stEP「ハミダシモノ」に収録されている残りの三曲には読点は用いられていません。もっと言えばインディーズ時代の音源化された他の楽曲も例外ではありません。つまり、楠木ともりさんは歌詞を書く際に読点を無意識に用いるとは考えにくく、この曲での読点にはそれなりの意味があると考えてよいと思います。
私的にはここでの読点は、「やっぱり君は輝いている」ということを自分の中で反芻し、その末にやっと出た「眩しい」の一言であった、という情景を効果的に表すための表現だったのではないかなと思います。
余談ですが、この楽曲のタイトルにも読点が使われていますね。さらなる深い意味が込められているような気がしてなりません。
ここまで読んでいただいて、お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、彼はまだこの時点では、完全に自分の道を進んでいるわけではありません。冒頭では、電車に乗らず自分で歩く、と意気込んでいたはずだった。なのに。僕の見る世界は伸びきっているし君は眩しい、と言っているのです。つまり、まだ彼は憧れの存在に囚われた状態にあるのです。”呪い”はそう簡単には解けてくれません。
さて、ここまでで歌詞の1番を読み終えたわけですが、少々長くなってしまったので、このあたりで一旦終了とし、2番以降を別の記事として投稿したいと思います。よろしければそちらもぜひ。ではでは。
(2020/10/4追記)
歌詞2番以降の記事が完成いたしました!よろしければどうぞ!