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楠木ともり「sketchbook」について

 こんにちは、ネッチです。

 

 この記事では、楠木ともりさんの楽曲「sketchbook」について、私が考えたことをゆるーく考察っぽく、それでいて妄想マシマシで書いていこうと思います。

 

 ですので、ある種のssのような感覚でご覧いただくといいかもしれません。

 

 Twitterで見かけたいろんな方の解釈と自分の解釈を照らし合わせると、少し異なる部分もあったりしますし、あくまで1つの考えとしてご覧いただけたらなあ、と思います。

 

 いろんな解釈ができるほど歌詞が奥深く広がりがある、というのがともりさんの楽曲の魅力の1つだとも思っていますので。

 

 それでは早速1フレーズずつ見ていきましょう。

 

 

歌詞1番

窓の外には どんな世界が待ってるの?

 「窓」というのは内界と外界の境界を象徴するものであり、それと同時に外界との接点でもあります。*1

 

 ということは、この「窓」という一言で内界と外界という2種類の世界があることが示唆されると思います。

 

 外界、つまり窓の外にはどんな世界が待っているのかを「私」は知らないわけでありますから、外界=知らない世界、内界=知っている世界、という風に考えられると思います。

 

 これらの2つの世界が何を指しているのかについてはいろいろ想像の余地はありそうですが、昨今の情勢に鑑みれば、内界=楽曲制作時点までの世界情勢、外界=感染症収束後あるいは収束しない未来、という感じでしょうか。世界がどういう道を歩んでいくのかはいつの時代も分からないとは言っても、これまでに比べて予測がつきにくいという意識が強い気がします。

 

寝転び君に話した 私の思う私

 さて、この記事では、「私」=「ともりさん」と考えていきたいと思うのですが、この場合「君」=「ファン」と考えて良いかなあ、と思います。

 

 ともりさんが個人的に思い浮かべておられる方(ご家族・ご友人など)も「君」に当てはまることはあるのかもしれませんが、私ネッチはともりさんのファンなので、以下「君」 =「ファン」と考えていこうかなと。

 

 ともりさんが寝転んで、君に話すとはどういうことか、についてですが、「話す」というのを「ファンへの発信または作詞を行うことでファンへ想いを届けること」と捉えてはどうかな、と思います。

 

 ソファやベッドに寝転がって、スマートフォンを使ってTwitterでツイートしているというイメージかな?(ホントにそうなさってるのかは分かりませんが...笑)

 

 また、以前、作詞をなさるときはスマートフォンのメモ帳に歌詞を書いていく、ということを仰っていたと思いますので、あながち間違いではないのかなあと思います。

 

 そのようにして、今までともりさんは「ともりさんが思うともりさん」を我々ファンに伝えてきた、ということなのでしょう。

 

カーテンを開けたまま 君が眠る時間を待つ

 ここでの「待つ」というのは、具体的に「君」が眠るまでソワソワして待っている、というよりは、(いつの間にか)「君」が眠る時間になっていた、という感じなのかな、と思いました。

 

 カーテンを開けていることについては、私的には「蛍雪」の言葉のイメージがそこあるような気がします。

 

 夜に蛍の光や窓辺の雪によって反射される月明かりで勉強したということから生まれた故事成語だそうですが、ここでは特に「窓の雪」の方が、カーテンを開けたまま夜中まで起きている「私」に似ているんじゃないかな、と。

 

 夜中まで起きている「私」というのが、夜遅くまでお仕事をなさっているイメージがあるともりさんをよく言い表しているような気がします。*2

 

明日の夢を歩けば いつか飛べる気がするの

 さて、「明日の夢」についてですが、そもそも(個人差はあると思いますが)比較的遠い未来の話である「夢」と、最長で24時間後の「明日」という2つの言葉って、繋がりにくい言葉ではあると思うんですね。

 

 じゃあ、「明日の夢」とは?ということですが、ここでは「夢」=「目標・課題」という意味合いで捉えると分かりやすいのかな、と。

 

 そういった明日の目標を「歩く」=「地道にこなす」ことで、いつか「飛べる」=「大成する」という感じかなあ。

 

 ただ、ともりさんは「明日の”夢”」という言葉のチョイスをなさったわけなので、その部分はしっかり受け止めたいなという気持ちもあります。

 

 私が思うに、単純に「夢」という言葉が「寝転ぶ」や「眠る」 という言葉との親和性が高いということや、大きな”夢”も”明日の”小さな一歩から始まるというニュアンスが込められているのかなと。

 

知らないことばかり 幼い記憶 水面踊らす

 さて、ここではまず「水面」について考えたいと思います。

 

 「水面」が何を表すかいろいろ考えた結果、

  1. 心の状態
  2. 自分を映す鏡

 のどちらか、あるいは両方を表しているのかな、と思いました。*3

 

 1の場合、「水面(を)踊らす」というのが、「心の波だった状態」、もっと言えば「荒んだ状態」を表しているのではないかなあと思います。

 

 そういった心の状態の原因が「知らないこと」「幼い記憶」である、と。

 

 2の場合、「水面」が揺れることで、水の表面に自分の姿は映らなくなりますので、つまりは「自分を見失う」という意味合いなのだと思います。

 

 1と同様に、知らないことばかりの幼い自分が足かせとなって、今自分ができることと、したいこととの乖離を感じ、今の自分を見失っているということなのかも。

 

 また、「踊らす」という言葉に注目すると、楽しげな雰囲気を感じさせますので、幼い記憶というのは楽しい思い出であったことを示唆している気がします。

 

 そんな楽しい思い出が、現在の苦しい状況をより際立たせているのかもしれません。

 

聞いて、どうか話を聞いて

あの子に会えるように

 ここでいろんな解釈ができるであろうポイントが、「誰が話を聞くのか?」という点だと思います。

 

 話を聞く人物の候補としては、

  1. あの子

ぐらいかなと思います。「あの子」が何を指すかは少し難しい気がしますが、この記事では「まだともりさんのファンではない人」と捉えたいと思います。なぜなら、「私」から見て(「君」は二人称であり)「あの子」は三人称ですので、「あの子」は「私の言葉」=sketchbook(など)を聞いていない人物、つまりまだともりさんのファンではない人であると思ったからです。*4

 

 まず、1と考えた場合、聞き手はファン、話し手はともりさんになると思います。すると、我々ファンやともりさんが「あの子に会えるように」、ファンにはともりさんの言葉(楽曲含む)をよく聴いて(そこに込められた想いを広めて?)欲しいというメッセージが込められている、と考えられると思います。

 

 2と考えた場合、聞き手はともりさんであって、話し手はファン、ともりさんから見た周囲の”大人”、はたまたともりさん自身でもあると思います。

 

 この場合、まだファンではない人にもいつか会えるように、ともりさんが何かを聞き入れている、あるいは自分に言い聞かせているということだと思います。

 

 この「何か」の正体がはっきりとは分からないのですが、間接的には「幼い記憶」に含まれていない事柄であって、それは水面を踊らすものでもあると言える気がします。*5

 

 3と考えた場合については、個人的には少しだけ違和感があるような気がします。というのも「聞いて」という風に呼びかけているその対象が三人称の「あの子」というのはイメージし辛いと感じたからです。呼びかけているのであれば、その対象は二人称になるだろうということです。

 

 ただ、内容としてはまだファンではない人に対して「聞いて」と発信することは何ら不思議ではないと思うので、そういったニュアンスは込められているかもしれません。

 

月明かりが滲む 夢見心地な吐息に

何色を混ぜれば 振り向いてもらえるだろう

 さて、いよいよサビに入りますが、ここでもいろんな解釈が生まれそうだなあと感じました。

 

 まず、「滲む」について、その原因として、

  1. 眠い目をこすって、眠気を我慢している
  2. 涙ぐんでいる
  3. うとうとして、眠りそうな状態である

の3つを私は考えました。

 

 まず1の場合、先程の「カーテンを開けたまま」の部分で示唆された、夜遅くまでお仕事をなさるともりさんがイメージできると思います。

 

 2の場合、涙の原因として例えば悲しみであると考えると、「あの子」に振り向かれない悲しみ、と考えられる気がします。*6

 

 3の場合、深夜にうとうとしている状態で、この解釈であればその直後の歌詞の「夢見心地」との繋がりもあって自然な解釈かもしれませんね。

 

 そんな状態である「私」の「吐息」が「夢見心地」である、という風に続きます。

 

 まず、「吐息」というのを私なりに解釈すると、吐息は口や声を連想させますので、「吐息」=「声優やアーティストとしての活動」と考えられると思いました。*7

 

 そんな「吐息」が「夢見心地*8」であるということは、「声優やアーティストとしての活動」がぼんやりとしていて、もしかすると実感がないということを表しているのかも?と感じました。*9

 

 「夢見心地な吐息」を「ぼんやりとした声優やアーティストの活動」と考えることにすると、「何色を混ぜれば 振り向いてもらえるだろう」というのは、「どんな演技や歌をすれば 振り向いてもらえるだろう」と捉えることができるのではないでしょうか?

 

華やかに埋めても 飾ることなく消えゆく

描いた景色は まやかしのまま

 ここでの「埋め」るという言葉は、何を埋めるのかがあまりはっきりしていないように思います。

 

 ですが、2番以降の歌詞に「白紙」「重ね塗られて」「筆」という言葉が登場することから、「埋める」というのは「白紙を色で埋める」という風に解釈できるのかな、と思います。「色」というのは先程登場した「演技や歌」の種類ということでしょう。

 

 このことから、「飾る」というのは「描いた絵画を飾って公開する」、つまり「ともりさんが声優やアーティストとして思い描いた活動計画を実行する」というイメージであると考えています。

 

 しかし実際は飾ることなく、まやかしのままで、計画は実行されていないということでしょう。

 

歌詞2番

眠らずにいて、君は静かに目を瞑る

 さて、ここから2番の歌詞になります。*10

 

 ここの解釈は、「私は眠らずに起きているが、君は静かに眠る」ということなんでしょうか。

 

 私が君に「眠らないで!」という風に呼びかけている、と考えられなくもない気はします。というのも、1番歌詞にあった「聞いて、どうか話を聞いて」と比較すると、読点「、」が同じように使われているので、呼びかけであると考えたくもなります。

 

 自分の中ではどちらの解釈もアリなのかなあ、と思います。*11

 

世界は眩しく回り 秒針は朝を告げた

 ここでは「眩しく」から日の出を、「回り」から地球の自転(に伴う日の出)のイメージが浮かびました。

 

 「秒針」は「時刻」を表すものなのでしょう。少しだけ付け加えると、秒針は分針や時針より動きが”速い”ので、朝の訪れが”早い”と「私」が感じていることを暗示していると考えられるかもしれません。*12

 

透き通る日差しは 部屋を甘い香りで満たす

 「甘い香り」って一体何なんでしょうか?*13

 

 実際日光に香りはないので、甘い香りというのは日光に当たった布団の匂いか、比喩として使われているか、このあたりだろうと思います。

 

 比喩である場合には、「私」が甘い香りを感じるような心情ということでしょうか。日光を浴びることから生まれる心地よさ、安息、幸福などを感じているというイメージなのかなあ。

 

 少しひねくれた解釈かもしれませんが、一方で「甘い誘惑」などの言葉の通り、「甘い」には「人をたぶらかす」という意味もあります。

 

 そう考えると、「この心地よい部屋の中にいつまでも留まっていたい」、つまりは「知らない世界に飛び出さずに、今の生活を続けたい」という風に読み取れる気もします。

 

 冒頭で申し上げた通り、「部屋の外」を「感染症収束後あるいは収束しない未来」と考えると、部屋の中に居たいと思う「私」は「今の生活様式に慣れ始め、感染症蔓延以前の生活様式を望まなくなっている」ということなのかもしれません。

 

 具体的に言えば、以前のように有観客でのライブやイベントを行うということを望まなければ、現実とのギャップに思い悩むことも無い、ということでしょうか...?

 

 まとめると、「甘い」には心地良いというプラスの面と、誘惑されそうなマイナスの面が重なり合った、複雑な感情を表しているのかなあ、と。マイナスの面に関しては考え過ぎな気もしますが。

 

 最後に少しだけポジティブな解釈を付け加えるとすれば、「透き通る日差し」は一方で「部屋の外」から差し込む希望を表しているのかもしれないということです。

 

聞いて、どうか話を聞いて

もう君に会えない?

 「もう君に会えない?」はクエスチョンマークがあることから、「私」の心の声を表していると考えられるでしょう。

 

 1番最初に「寝転び君に話した」というフレーズは(過去形であることからも)過去の話であると推測できますが、ここでの「もう会えない?」という部分からも、「私」が「君」に会っていたのは過去の話で、現在は会えていないということが分かります。

 

 つまりは、「私」=ともりさん、「君」=ファンという構図をより強く意識できるのかなあと思います。もちろん、他の解釈を否定する要素にはなりませんが。

 

照らされた白紙は 皆が羨む輝き

 さて、ここでの「白紙」が何を表しているか、についてですが、恐らく「ともりさんのありのままの姿」ということなのかなあ、という気がしています。

 

 「照らされる」ということは「人の目に触れる機会がある」ということで、そんな「ともりさんのありのままの姿」は皆が羨むほど優れている、というイメージです。

 

 ただまあ、ともりさんが「自分のありのままの姿は皆から評価されて認められているんだぞ」ということだけを歌詞にする、というのはなんだか想像し辛いなあと。

 

 そこで私が考えたのは、「自分のありのままの姿は評価されている」が、「自分の中ではそう思っていない」という想いが込められているのかな、と。

 

 もっと言えば、今自分が皆に見せているのはあくまで「白紙」なのであって、将来もっと素敵に彩られたスケッチブックを見せていくよ(飾っていくよ)という意気込みなのかもしれません。

 

”堪えた涙より 流した涙の光”

 ここのフレーズはLyric Videoをよく見ると、「” ”」で括られているんですよね。

 

 このことから思うに、このフレーズは誰かの言葉の引用なのかな、と。*14

 

 「堪えた涙」は「感情を押し殺す、封じ込める」というイメージで、「流した涙の光」は「感情を表出させ(=涙を流す)、そこに当たるorそこから発せられる光」というイメージで私は考えています。

 

 つまりは、プラスの感情もマイナスの感情も押し殺さずに表に出すことで、流れた涙に光が当たるように、表出した感情も前向きに捉えることができる、ということなのだと思っています。

 

日々重ね塗られて 足りない色に気づくの

描いた景色は まやかしのまま

 「重ね塗る」というのは「白紙」に「色」を塗っていくということで、そうやって塗っていくからこそ足りない色に気づく、と。

 

 「足りない色」というのは、「絵を完成させ飾るために必要な色」つまり「声優やアーティストとしての活動を形にし、ファンへと届けるために必要な演技や歌の技能」ということでしょうか。

 

くすんだ思い出も 怖がらず筆にとって

好きな色だけでは 彩るには足りなくて

 この「くすんだ思い出」が「足りない色」である、というのがともりさんらしい考え方だなあ、と思います。

 

 「クローバー」という楠木ともりさんの楽曲はまさにこのような、素敵な思い出ではないものも受け止めよう、という想いが綴られていると私は思っているのですが、この「sketchbook」でもそういった考え方が現れている気がします。

 

隙間ないパレット 私の自由の証

 今や、好きな色だけではなく、くすんだ色もパレットに出している、つまり実際に使おうとしている「私」の様子が読み取れるかな、と。

 

 そのパレット上での選択肢の多さや、そこから生まれる表現の多様さが、つまりは自由であると。もしくは、くすんだ色をもパレット上に準備することができている「私」の状態を自由と言っているのかもしれませんね。(くすんだ色を使いたくないという忌避感に囚われていないという意味で。)

 

描きたい景色に 嘘はいらないの 約束をして

 最後のこの「約束をして」という言葉は誰に向けたものなのでしょうか。

 

 「描きたい」の主語が「私」であろうことを考えると、「私」に「嘘はいらない(嘘はつかない)」ということを「約束して」欲しい、ということなのかなあ、と。要するに嘘をつかないという決心なのでしょうか。

 

 

さいごに

 さて、いかがだったでしょうか。

 

 なるべくいろんな解釈を書き並べて、1つに断定することをせずに話を進めてきました。

 

 ですので、この記事を読んでくださった皆さんが自身の解釈をまず大切になさって、その中に私の考えが少しでも良い影響を与えていたら嬉しいな、と思います。

 

 Lyric VideoのFullバージョンが公開される一週間前にshortバージョンが公開されましたが、初めて聴いた時には「まさに(ネッチが思う)ともりさんだなあ」と思いました。

 

 一度さらっと聴いただけでは歌詞の意味が直ぐにはイメージできなくて、最初は音楽や歌い方に注目して聴いていました。

 

 そうやって聴く内に、「ここってこういう意味なのかな?」と思う部分が少しずつ増えていく感覚がとても楽しいんですよね。

 

 そんな風にして積み上げたイメージを整理してから曲をもう一度頭から聴くというのがこれまた楽しい。ともりさんのイメージする情景が自分の頭の中にも広がっていくような。

 

 自分がこのブログを始めたのも「僕の見る世界、君の見る世界」の記事を書くためだったと言っても過言ではないので、そういう点でも感謝しています。

 

 今後のともりさんの益々のご活躍をお祈りして、最後の言葉とさせていただきます。

 

 随分長い記事になってしまいましたが、最後までご覧いただき本当にありがとうございました。ではでは。

 

歌詞の引用は全て「楠木ともり「sketchbook」-Lyric Video-(Full ver.)」<https://www.youtube.com/watch?v=iW7ooNZZEJE>より。

*1:こちらの記事を参考にしております。

VOL.1 日本語における窓 | Research | 窓研究所 WINDOW RESEARCH INSTITUTE

*2:深夜に放送のktmrを、作業をしつつリアタイする、なんてことをツイートされていました。

楠木ともり 公式info on Twitter: "(🌟)あ、でもみんなと聴きたいのでお仕事しつつかけておこうと思います
#ktmr"

*3:水面が心の状態を表すことについてはこちらの記事「心が水面のように穏やかになるのは比喩ではない - 瞑想録:スピリチュアル - ワヤナタ (我が家への長い旅路)」、自分を表す鏡を表すことについてはこちらの記事「ナルキッソス - Wikipedia」を参考にいたしました。

*4:「ファン」と言っていますが、ここでは「ともりさんが好きだと自覚している人」ぐらいの意味合いです。

*5:決して断言はできませんが、個人的には感染症の蔓延に伴って、声優やアーティストとしての活動計画が変更になり、心が荒むことはあったのかな、と思います。もし仮にそうだとすれば、「何か」は変更になった活動計画を始動させ、「あの子」に会うための周囲からの助言や自分への言い聞かせを表すのかなあ、と思います。

*6:”嬉し涙”という可能性も無いとは言えなくとも、曲の雰囲気からなんとなくその可能性は低い気がしています。

*7:楠木ともりさんの楽曲「バニラ」には「私の声がバニラに溶けて」というフレーズがあるのですが、ここでの「私の声」というのも「吐息」と同じように「声優やアーティストとしての活動」を表しているのではないかな、と思っています。

*8:夢を見ているようなぼんやりとした、またうっとりとした心持ち(夢見心地(ゆめみごこち)の類語・言い換え - 類語辞書 - goo辞書より)

*9:これは超個人的な体験談なのですが、無観客配信でダンスを披露したことがあって、その時は披露したという実感は薄く、虚無感があったなあと。プロと比較するなんておこがましい気もしますが、なかなかライブを有観客で実施できていないともりさんに自分の経験を重ねてしまいます。

*10:2021/2/12,22:24訂正、ここの「、」は「。」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。なお、後の「呼びかけではないか」という解釈については、「聞いて、」との直接の比較はできませんが句点であっても同様の解釈はできるかな、と考えています。

*11:あまり大きな声では言えませんが、「君=ファン」が「目を瞑る」というのを、「(一部の)ファンがともりさんから目を背ける、離れる」と考えると、「私=ともりさん」が「眠らないで!」と呼びかけるのも分かる気がします。見当違いな解釈だったら土下座ものですね。

*12:時計の針×楠木ともりさんと言えば「アカトキ」みたいなとこありませんか?この「sketchbook」には過去に発表されたともりさんの楽曲の面影がちらほら見えるような気がします。

*13:「アカトキ」に加えて、ここの「甘い」は「バニラ」といったところでしょうか。

*14:この引用は憧れの人の言葉なのかなあ、と思ったのですが、楠木ともりさんの楽曲「僕の見る世界、君の見る世界」に「君の声だけ拾っておくよ」という一節があるんですよね。この楽曲では「君」=「憧れの存在」であると私は考えているのですが、なんだか繋がりがありそうな気がします。よければ当ブログ内の「僕の見る世界、君の見る世界」の記事もよろしくお願いします()