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ラブライブ!シリーズやその他のことについて書こうと思います

スパスタ2期の見方

 ラブライブ!スーパースター!!2期を見てみなさんはどう感じましたか?僕は大好きです。

 

 スーパースター!!2期に対する感想をいくつも見てきました。批判も沢山見ました。脚本が適当、ご都合展開、キャラが駒、味気ない。

 

 そういう批判を見て、最初は無視しようと思いました。所詮好みの問題だし、言い合うことで余計に怪我人が増えるかもしれないから、放っておけば良いと思っていました。表では綺麗事だけ言っていたい、と思っていました。

 

 しかし、そうは言っても考え無しの批判があまりに多すぎる。

 

 スーパースター!!2期にどんな意味があったのか、それを明らかにするのがこの記事の目的です。

 

 

 

前提

 まずお尋ねしたいことがあります。スーパースター!!という作品が「何を」「どう」描こうとしているのか、あなたは本当に理解していると言えますか?

 

 この質問にYesと答えられるのは実質制作陣の人間だけでしょう。私だって、すべてを理解しているなんて言えるわけがありません。

 

 でも、1つだけ言えるのは、スーパースター!!が描こうとしていることは作品に現れているということです。当たり前のことですが、作品はあなたの頭の中にあるイメージを具現化するものではなく制作陣のイメージを具現化するものです。当たり前のことですよね。

 

 だから、ここの描写はこうあるべき、などという批判は制作陣の想いを踏みにじる可能性があるということを肝に命じるべきです。キャストさんも制作陣ですよ。

 

 一方で、ここの描写が素敵、といった感想は、仮に制作陣の想いと違ったとしても人を傷つけることはありません。むしろ、作品は受け取り手の肯定的な誤読によって深みを増す、という話もなされるほどです。その意味で、否定と肯定は全く対等ではないのです。

 

 逆に、ファンの批判もある程度は作品のために必要だ、という意見もありますよね。好きだからこそ批判をするのだ、と。批判がなければコンテンツは衰退するのだ、と。

 

 しかし、その批判が的を得ておらず、制作陣の想いを無下にしているかもしれない、と一度でも考えたことはありますか?自分が作品の真意に気づいていない可能性が0だと言い切れますか?

 

 言い切れないのなら、感情に任せた適当な批判はすべきではない、というのが持論です。

 

 

神格化

 始動当初からスーパースター!!を追いかけてきて思ったのは、そこに楽園を見出そうとする視点はしばしば裏切られる、ということです。一見悪口のように見えるかもしれませんが、そうではありません。

 

 スーパースター!!の作風として、夢と人間関係に関しては特にリアルに描かれるなと感じています。つまり、夢について綺麗事だけを言うことはないし、人間関係も道徳的に悪い部分だって描かれます。

 

 分かりやすい例を挙げるなら、可可ちゃんのすみれちゃんに対するイジりでしょう。しつこく「グソクムシ」とからかいながら悪ノリする可可ちゃんが悪い子みたいではないか、と憤る感想も見ました。

 

 これに対する僕の見方としては、可可ちゃんは悪い子だということです。

 

 勘違いしないでほしいのですが、だから可可ちゃんが嫌い、というのでは決してありません。大好きです。

 

 可可ちゃんには誰に対しても毒を吐かない心優しい子であってほしかった、という人にとっては辛い描写だったかもしれません。そして、可可ちゃんに限らず、僕の推しのすみれちゃんだって、事あるごとにギャラクシー☆などと言い調子に乗るところはメンバーからもウザがられているかもしれません。

 

 それでも、そんな完璧ではない人間だからこそ僕は愛おしさを感じるのです。完璧ではないからこそ、綺麗ではないからこそ、愛おしくなる、という感覚が世の中には存在することを、知らなかった人にはぜひ知ってもらいたい。

 

 アニメなんだから、誰もヘイトを買わず、誰も毒を吐かず、綺麗な人間関係でいてほしい、という気持ちも分からなくはありません。現実は綺麗ではないからせめてアニメの中ぐらいは綺麗であってほしいと願う、ということもあるでしょう。

 

 しかし、スーパースター!!はそういう作品ではなかっただけのことです。綺麗ではないからこそ愛おしさを感じられる、そういう作品こそが制作陣の描きたかった世界なのだ、と僕は解釈します。

 

 以下、綺麗であってほしいと願う感情を「神格化する」と表現することにしますが、この神格化という感情がスーパースター!!の解釈を否定的にしてしまっている事例がいくつもあります。

 

 

UR葉月恋のこと

 まずはこれから。メンバーの神格化が批判の生まれる原因になっている分かりやすい例です。

 

 「恋ちゃんはゲーム依存症なんかになったりしない!!!」という批判自体、恋ちゃんの神格化が前提になっていることがご理解いただけるでしょうか。

 

 恋ちゃんは気品があってお淑やかで、自分を律することができるかっこいいお嬢様。そう思っていた人は少なくないだろうし、むしろ1期は視聴者がそう思うように作られていたと思います。

 

 そして、そういう風なイメージを視聴者に持ってもらったからこそ、第7話「UR 葉月恋」は意味を持つのです。

 

 この回の本質は「自他に対するレッテル」についてだと思います。つまり、恋ちゃんは「自分を律することができるかっこいいお嬢様」というレッテルを自分に貼っていたが故に苦しんだわけです。

 

 一方で、8人の側としては「かっこよくない恋ちゃん」自体なんとも思っておらず、「自分を律することができるかっこいいお嬢様」というイメージは持っていなかったわけです。そして、仲間とはそういう表面的なイメージに惑わされない間柄を指すのだ、という結論に至ったということです。

 

 視聴者が恋ちゃんに対して「自分を律することができるかっこいいお嬢様」というイメージを抱いていたように、恋ちゃん自身も自分はそういう人間だと思い込んでいたわけです。そういったレッテルが自分や相手を縛り付けることがあるという、メッセージに富んだ回だったなと思います。

 

 

2期生の意義

 何回1期生と2期生の実力差に触れれば気が済むのか、とか、追いつけ追い越せとは何だったのか、とか。そういった感想をよく見かけます。

 

 まず、はっきり申し上げると「追いつけ追い越せ」は追い越せません。1期生2期生両者が同じ方向を目指して全力で走り続ければ、追いつけないのは当たり前のことだとは思いませんか?

 

 20年以上ダンスの世界に関わってきた僕からすれば、パフォーマンスを追求する世界において全力で取り組んだ1年というのは凄まじい差になると言えます。ちょっとやそっとで追いつけるわけがありません。初心者は伸びしろが体感的に大きいので、高校生からスクールアイドルを始めたメンバーにとっては尚更その差は大きく感じられます。

 

 結局、先輩後輩の実力差が簡単に埋まるという考え方自体不自然ではないか、ということです。何度も実力差が取り沙汰されたのは、そういう考えが制作陣にあったからだとは思いませんか?

 

 実力で劣る2期生を迎え入れることは、後世に引き継ぎを行うという観点からすれば非常に意味のあることです。社会でも学校でも、後輩を育てることはコミュニティの存続のためになくてはならないことでしょう。

 

 でもその引き継ぎには一回テコ入れすれば何とかなるなどという生半可なものではなく、先輩後輩両者にとって辛抱強く向き合っていかなければならない、ということが描かれたわけです。

 

 特に2期生にとっては辛い場面も多かったと思います。すみれちゃんに本心ではないとは言え実力不足を真正面から告げられて辛かったと思います。そんなの可哀想だから、実力不足を隠したままラブライブ!へ向かって優勝する物語にすれば良かったじゃないか、と思ったかもしれません。

 

 しかし、そのような物語は先に申し上げた通り、そして私の経験的にも、リアルではありません。9人全員でラブライブ!優勝という夢を掴むためには、それ相応の代償を払うことになります。だから夢だったのです。みんな仲良しこよしでゴールできるなら、彼女たちはそんなものを夢とは定義しなかったでしょう。

 

 

ご都合展開という話

 2期生の加入までのストーリーについて、もっともらしい理由が描写されていないと不満を述べる感想をいくつも見ました。

 

 典型的なのがきな子ちゃんについて。きな子ちゃんをかのんちゃんが誘ったのはなぜか。そこに納得がいかない、という感想をよく見ます。

 

 春休みなのに屋上で出会って、話をしたこと。スタプロを見てくれてたこと。僕は本当にそれだけだと思います。そしてそれで十分だとも。

 

 きな子ちゃんじゃなきゃいけない特別な理由。きな子ちゃんにとってスクールアイドルでなければいけない特別な理由。素晴らしく壮大な始まり。アニメだから事前にしっかり理由をこしらえて、伏線を張り巡らせて、それから始まりを描写しなきゃだめでしょ、と思う人もいるでしょう。

 

 そんな描写をしてみたとして、それを見て夢を追いかけようとする人が現れるわけがありません。恵まれた人だけが夢を追って良いのだと錯覚するはずです。かつての夏美ちゃんのように。

 

 ラブライブ!はこれまでのシリーズでも夢を追う意義について何度も伝えてきたコンテンツです。そんなコンテンツが夢は壮大な始まりが訪れた人間のみが見て良いものである、と伝えるでしょうか?μ'sが「叶え!みんなの夢!」と叫び、Aqoursが「君のこころは輝いてるかい?」と叫び、虹ヶ咲が「次はあなたの番!」と叫んだのは何だったのか?、と言わざるを得なくなるでしょう。

 

 そして、たまたま学校の先輩に出会って話をしただけの、どうしようもなく普通なきな子ちゃんが今やラブライブ!優勝者であることが、なんにもないとこから始める夢追い人の支えになるのです。

 

 行動にむやみやたら理由を求める姿勢はラブライブ!が描く夢の思想にそぐわない、と僕は思うわけです。そして、こういう視点が存在することを認識した上で、それでもあなたは制作陣が2期をご都合展開満載の駄作に仕上げたと主張できますか?

 

 

カップリングのこと

 そもそもカップリングという概念はアニメ本編で言及されてはいません。それを前提とした上で、このメンバー同士は特に絡んでいるシーンが多いな、と感じるペアはいることでしょう。

 

 また、僕はメンバー一人ひとりを生きている人間だと捉え、その行動や発言を理解しようと努力します。結局は架空の存在だとか、宗教じみているだとか、何だと言われようと僕はそう捉えます。なぜなら、キャストさんは間違いなくメンバーを一人の人間だと捉えている、と僕は感じたからです。

 

 例を挙げるなら、ペイトンさんはライブのMCで「すみれちゃんの身長はこれくらいなんだけどね」と自分の頭の少し上を指しながら話していた、という出来事があります。メンバーの身長が自分に比べてどれぐらいか、という想像自体、メンバーを単なる駒だとしか捉えない人がするはずもありません。他にも「自分とすみれちゃんの間には距離がある」と涙ながらに話すMCも印象的でした。

 

 といった前提をお話した上で。

 

 Sing!Shine!Smile!を歌い決勝進出が決まったシーンで、仲間はずれのメンバーがいるという感想を見ました。

 

 仲間はずれだと決めたのは見てる側ではありませんか?抱き合っていなければ繋がっていないと捉える思想は寂しいものです。もっと言えば、一人で喜びを噛みしめる性格を否定されているような気にもなりました。

 

メイ「誰かと仲良くしろとか、誰かと仲良くしたくないとか。なんでグループって、ああ面倒なことになるんだろうなぁ。」
ラブライブ!スーパースター!!2期4話

 

 他人に人間関係についてとやかく言われるのは不快なことだとは思いませんか。

 

 また、仮に関係性が希薄なメンバーが居たとして、それを残念にしか思えない思考こそアイドルに典型的な神格化が起こっています。

 

 アイドルを神格化することがおかしいと言いたいのではありません。むしろ普通アイドルとはそういうものだとも思います。しかし、少なくともスーパースター!!の世界においてその視点は肯定されていません。美しくない人間関係と一筋縄ではいかない夢がその典型です。ある意味神格化され切っておらず、その視点での”粗”が見えているから、Liella!はアイドルらしくはないかもしれませんが、僕は現実と戦うそんなLiella!が大好きです。

 

 一人の人間だからこそ、お互いに苦手意識を持っているメンバーだっているかもしれません。それでもチームで活動することの意味と、その活動の中で打ち解ける瞬間を僕は知っているから、ずっと見守っていようと思えるのです。

 

 そして、一人の人間だからこそ、僕は彼女たちの全てを理解できるなど到底思わないのです。自分のこともよく分からず、相手のことも真には理解できず、人間とはそういうものだと思っています。そしてそれ故に、僕は彼女たちの表面的な関わりだけを見て判断することはしません。

 

 

私を叶える物語について

 優勝のシーンがあっさりし過ぎている、という感想を良く見かけます。

 

 この感覚自体、間違っているとは僕は言えません。1期12話からずっと目指してきた夢のステージにようやくたどり着き、優勝して、Liella!メンバーと応援してきたみんなで喜びたかった。その感覚はきっと自然な感覚です。

 

 じゃあなぜそのように描写されなかったのか。それはスーパースター!!2期はあなたにとっての「私を叶える物語」ではなかったからです。

 

 2期で説明された「私を叶える物語」は、「私」がいなければ進まない物語のこと、というものでした。留学は他ならぬかのんちゃんがいなければ進まない物語でした。ここがある意味で「みんなで叶える物語」と対照的な要素だったわけです。

 

 スーパースター!!の物語はあなた一人がいなくなっても、そして僕がいなくなっても、それでも進んでいく物語です。疑いたくもなってしまいますが、真実だと思います。仮に明日からあなたと僕がスーパースター!!の応援をキッパリ止めたとして、それでLiella!の活動がストップすると思うでしょうか?悲しいですが、僕の答えはNoです。

 

 それはつまり、スーパースター!!はあなたにとっての「私を叶える物語」ではないということです。そして、「私を叶える物語」を冠する2期12話において、優勝をみんなで喜び合うという「みんなで叶える物語」の成功を殊更大げさに取り上げる必要はなかったとも言えるわけです。なぜなら、あなたにとっての「私を叶える物語」はアニメの外にあるからです。

 

 この論理に向き合うかどうかはもちろんあなた次第です。アニメ作品として最後には”分かりやすく”盛大に喜び合うシーンが必要だったと思っても構いません。ですが、これまで説明した思想が存在することを知った上で、それでも制作陣の力量不足で本来描きたかったことが描かれていないだけだ、と主張しますか?そこに制作陣の想いは込められてなどいない、と言い切れますか?

 

 

最後に

 ここまでご覧いただき、ありがとうございました。

 

 スーパースター!!に対して僕と逆の見方をしたい人にとっては理解しがたかったかもしれません。しかし、こういう見方が存在する、ということを知っていただいた上で、制作陣が「何を」「どう」描こうとしていたのかに思いを馳せていただけると、僕としても嬉しい限りです。

 

 作品に対する否定も肯定ももちろん自由です。ですが冒頭に述べた通り、それらは対等ではありません。特にSNS上で否定をすることがどういう影響を及ぼすかを理解すべきです。批判にも成りきれていないただの悪口なんてもってのほかです。また、否定も肯定もせず、判断を保留することも勇気ある行動だと僕は思います。

 

 そして、僕はLiella!を愛しています。愛しているからこそ、こんな意味のある見方ができるのではないか、ということを知ってほしいと思いました。

 

 何も無理な解釈をしているつもりはありません。好意的な解釈を迫られているとも思っていません。ただ彼女たちが生きていると信じて、その生き様を感じ取っているだけです。

 

 3期で彼女たちがどのような物語を見せてくれるのか、楽しみでなりません。