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ラブライブ!シリーズやその他のことについて書こうと思います

楠木ともり「僕の見る世界、君の見る世界」について(歌詞考察)#2 √1

 検索からこのページへ直接お越しになった方、あるいはまだ#1, #2をご覧いただいていない方は当ブログ内の記事

楠木ともり「僕の見る世界、君の見る世界」について(歌詞考察)#1

https://imkt00.hatenablog.com/entry/2020/09/27/222642

 楠木ともり「僕の見る世界、君の見る世界」について(歌詞考察)#2

https://imkt00.hatenablog.com/entry/2020/10/03/013659

 を先にご覧いただくとより一層お楽しみいただけるかと存じます。

 

 

 さて、ページを改めまして。こちらは

  1. 僕にしか出来ない旅を ”きみと” しよう。

の解釈についての説明およびこれ以降から最後までの歌詞考察となっています。

 

 歌詞をもう一度引用しましょう。

僕にしか出来ない旅をしよう
きみと

  僕にしか出来ないと言いつつ君と一緒だなんて、なんだか釈然としないなあと感じる方がいらっしゃるかもしれません。現に私がそうでした。しかしここは、旅を”君と”する、といった時の「と」はwith(共に、あえて書くなら僕が"主"で君は”従”だという意味で供に)の意味でありますから、この旅が本質的に僕(だけの)ものだということに変わりはない、ということなのでしょう。

 

僕の見る世界は伸びきっている
戻そうとしたって畳まれていくだけ

 そもそも「伸びきっている」という表現は周りの景色が流れていくことに由来していましたね。景色とは周囲の人々や環境と考えられます。ですが、自分だけの道を行くんだと言う彼が今更周り(の人々など)を気にしているとは考えにくく、世界が伸びきっていると表現するのは少々違和感があるように思います。ですので、ここを無理やり解釈するなら、彼が本当の意味で自分だけの世界というものに気付けたおかげで、これまでの自分を俯瞰することができ、振り返り思い返しているような場面なのだと言えるでしょうか。音楽的な側面から言えばサビのフレーズを統一することはよくあることですので、そう割り切ってしまうのがいいのかもしれませんが。

 そして「戻そうとしたって畳まれていくだけ」についてですが、この記事を書くまでずっと、なんとなく分かりそうで、でもイマイチ分からないというフレーズでした。そんな私がやっとの思いで辿り着いた答えが次の画像にあります。

 

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戻そうとしたって畳まれていくだけ

(見づらくて申し訳ありません。筆者手作りですのでご容赦下さい。)まずある程度の幅があるゴム紐をイメージしてください。そのゴム紐を思いっきり引き伸ばした後、両端を持ちながら伸ばした方向と逆方向に戻そうとすると、デロンとゴム紐がたるみますよね。これが私の「戻そうとしたって畳まれていくだけ」のイメージになります。「畳まれ」の「れ(る)」は受動ではなく自発であり、勝手にそうなるという感じなんでしょう。

 

君の見る世界に背を向けるよ
車窓から落ちる 君の声だけ
拾っておくよ

 そしてここで彼は「君の見る世界に背を向け」たんですね。今までずっと呪いのようにまとわり付いていた「憧れ」から目をそらし、やっと自分自身の世界を見るようになったわけです。感慨深いね!(CV:楠木ともり

 これまでサビ終わりのフレーズで「君が、眩しい」「君が、見えない」というように君をなんとか見ようとする彼の姿勢が現れていたわけですが、もはや彼は君の姿ではなく声しか聞いていないようです。逆に言えば”声は”聞いているわけですね。つまり彼は君の存在を完全に自分の世界から締め出したわけではないということでしょう。このあたりから楠木ともりさんの「憧れ」に対する考え方を感じ取れるように思います。すなわち、憧れの存在と全く同じ道を行くのでなければ憧れを抱くこと自体は決して悪ではない、ということを言っている気がします。

 

 最後に1つ補足的なことですが、ラスサビ直前の「きみと」が、それ以前にも登場していた「君」と表記が異なっている点についてです。このことについて私は「きみと」という様にひらがな表記であるのは”音だけを認識している”よ、ということを表現しているのだと思います。「きみ」という音を聴いただけではそれが「君」という漢字表記か「きみ」というひらがな表記か、「キミ」というカタカナ表記か、はたまた「kimi」というローマ字表記かは区別が付きませんよね。そう考えると、今まで憧れの存在として漢字表記されていた「君」は視覚で捉えていた、すなわち君の方を見て同じ道を歩んでいたということを示唆しており、音でしか認識していない(視覚では捉えていない)ことをひらがなで代表したと考えれば「きみ」とはもう同じ方向を向いていないことが窺えるわけです。

 

 さて、これにて本稿は終了となります。少し無理やり感のある部分もあり、筆者ワールド全開で読み辛い箇所もあったかもしれません。それにも関わらず最後までご覧いただき本当にありがとうございました。別ルートの記事もありましたよね。お時間のある方はぜひどうぞ。この記事が楠木ともりさんの楽曲の理解および普及に繋がることを願って。ではでは。