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ラブライブ!シリーズやその他のことについて書こうと思います

「Solitude Rain」の話

 こんにちは、ネッチです。

 

 今回はアニガサキ第8話挿入歌「Solitude Rain/桜坂しずく(CV:前田佳織里)」について書いていこうと思います。

 

 具体的には、「しずくちゃんが演技をどう考えているか」という視点で考えていこうと思っています。

 

 そして、この記事ではスクスタで描かれているしずくちゃんについても触れていきます。

 

 第8話放送当初から、この楽曲やしずくちゃん自身はあちこちで物議を醸しまくっていた(と思っている)ので、正直今からお話する内容が全てだとは思っていません。そもそも物議を醸す時点で、視点によって色んな解釈ができそうだと思っていますので。

 

 なので、あくまで1意見だと見ていただければなあ、と思います。本文中で「~だ。」とか「~である。」という様に断定している部分がありますが、それらは全て「と思う」という気持ちが含まれていることをご了承ください。

 

 まず最初に、歌詞について考える前に色んな概念の確認や言葉の定義を行って、その後で歌詞について考えていこうと思います。

 

 

この世界は演劇そのもの

 まず初めに準備として、スクスタにおけるしずくちゃんキズナエピソード19話で語られた、「この世界は演劇そのもの」という世界観をおさらいしておきます。

 

 「この世界は演劇そのもの」というのは、私なりにまとめると「この世界の人はみなキャラを演じており、みなそれぞれが生み出す物語の主役である」という世界観であると考えています。

 

 そして、この世界観はスクスタで登場したものですが、アニガサキでしずくちゃんを考えるにあたっても適用できる世界観だと考えています。

 

 ただ、スクスタとアニガサキで、しずくちゃんの演技に対する捉え方が、物語序盤では異なっていることもあって、スクスタとアニガサキを混ぜて考えることを避けたい気持ちは正直ありました。*1

 

 ですが、この記事はそれぞれの媒体におけるしずくちゃん像をなんとか統合できないか、ということを模索する記事でもあります。

 

 私は現時点では、「この世界は演劇そのもの」という世界観をアニガサキにも適用することで矛盾は生じない、と考えており、であるなら積極的に取り入れていこう、という風に思ったのです。

 

 また、1つ注意としては、この世界観を適用すると言っても、アニガサキのしずくちゃんがこの考え方を持っているかどうかは分からないということです。

 

 しずくちゃんに関わらず、歌詞を考察しようとする私達がその世界観を持とう、ということなのです。

 

 

「演技」について

 次に、この記事における「演技」という言葉の定義からしたいと思います。

 

 急に定義とか言い出してなんだ?と思われてそうですが、私が思うに、「演技」という言葉の捉え方がしずくちゃんを理解する上で重要になってくると考えてのことです。

 

 しかも、「演技」という言葉が本来持つ意味にはあまり色濃く現れてこないニュアンスが大事であると考えています。

 

 ただ、定義と言っても、本来意味を持っている単語ですから、定義というより意味の付加・強調と言ったほうが適切かもしれません。それでも、この記事内においてはこれから示す意味で用いていきます。

 

 で、その「演技」の定義をする前に、この言葉と対になる言葉「偽り」から考えます。この「偽り」という言葉はSolitude Rainの2番の歌詞に登場しています。

 

 そして、この記事においては、

 

 「偽り」=「(例えば恐れなど)ネガティブな感情が原動力となって為される消極的な表現」

 

と定義したいと思います*2。また、「偽り」を動詞的に「偽る」とも記述します。*3

 

 具体的に例を挙げると、アニガサキ8話の冒頭におけるしずくちゃんです。人と違うことや嫌われることへの恐れが原動力となって良い子のフリをする(=表現)、という部分が「偽り」なわけですね。

 

 ここでポイントなのは、良い子のフリをしていたのは消極的であるということです。つまり、”恐れに対処するために”表現した、ということであって、表現そのものがしたくて表現したわけではない、ということです。

 

 さて、この「偽り」の定義を基に、その対になる言葉として「演技」を定義します。つまり、

 

 「演技」=「(表現したいと思って行う)積極的な表現」

 

と定義します。また、「演技」を動詞的に「演じる」とも記述します。

 

 ここで、なぜ()を付けているのかというと、ネガティブな感情が表現の原動力になっていない、つまり偽りでなければ、表現というのは演技であると考えているからです。

 

 このことは、先程登場した「この世界は演劇そのもの」という世界観に基づいています。

 

 少し私の主観が入ってしまいますが、人々はみなキャラを演じている、という風にしずくちゃんは言いますが、実際人間が「自分は今こういうキャラを演じているんだ!」と意識する時間ってそんなに長くないと思うんですよね。

 

 特に物語同士の交差、つまり会話などを行っている瞬間なんかは言語のやり取りに脳のリソースを割いていると思いますし、余計なことってあんまり考えてないんじゃないかなあ、と経験的にも思うのです。

 

 そう考えると、人が「演じている」と思っていなくても、その人は既に物語の主人公である(つまり演じている)ということも暗に含まれているような気がするのです。

 

 そういうわけで、「演技」はネガティブな感情が原動力になっていない表現である、とも言えると考えているのです。

 

 まあ、この()を付けるかどうかはこの記事の考察においては本質的ではなく、あまり気にする事ではないのかもしれません。

 

 

「曝け出す」について

 さて、最後にもう一つ定義したい言葉があって、それが「曝け出す」です。この記事では

 

 「曝け出す」=自分の中から生まれたキャラを、他人のキャラで覆わずそのまま表現すること

 

と定義します。要するに、単に自分の気持ちを外に投げ打つ、ということ以上に、「人はみなキャラを演じている」という世界観に合わせて、自分のキャラを他人のキャラで覆い隠さないこと、と考えます。

 

 

歌詞について

 さて、やっと本題の歌詞について考えていくことができそうです。

 

 先程定義した言葉はその定義通りにバンバン使っていきます。

 

 演技や偽り、曝け出すことについて関連する部分を順番に取り上げていきますね。

 

もう見失ったりしない

私だけの思いを

 

 ここで注目したいのは、「見失わないのは私の思い」であるということです。

 

 「もう~ない」ということなので、「これまでに見失っていたのは『私だけの思い』」であって、例えば「私を見失っていた」とかではないということです。

 

 「私を見失う」というのは、例えば「自分(らしさ)って何なんだろう」ということなのでしょう。で、ここではそういう意味ではないということです。

 

 じゃあ「私だけの思い」とは?ということですが、これはまさに「曝け出したいという思い」であると考えています。

 

 これは、黒い衣装のしずくちゃん(?)の台詞「それでも歌いたいよ!」*4や、しずくちゃんの台詞「本当の私を、見てください!」などからそうであろうと推測しています。

 

心 覆っていた仮面を

そっと洗い流していくの

 

 さて、次の一節ですが、ここでも同様に、「覆っていたのは心である」という点に注目したいと思います。

 

 つまり、覆っていたのは例えば私(というキャラ)ではない、ということです。あくまで覆っていたのは心であると考えたいのです。先程の曝け出したいという思いとは対照的ですね。(曝け出す=キャラを覆わない、なので。)

 

 これは、演技と偽りの話であると考えていて、つまり、恐れを感じる心に蓋をするように、心を仮面で覆い、(桜坂しずくの中で生まれた)キャラを表現していたということです。

 

 ここでの表現というのは、先程の定義通りに考えると「偽り」ということになります。

 

 そして、「洗い流していく」というのは、この「偽り」を止めたということなのでしょう。

 

胸の奥 変わらない

たったひとつの思いに

やっと気づいたの

 

 この部分では、先程登場した「私だけの思い」が「変わらないものである」と考えていることが窺えます。

 

 さて、ここから2番に入ります。

 

 本当の私と向き合うこと

ずっとずっと怖かったけど

 

 ここでは「本当の私と向き合う」とは何か?ということを考えたいと思います。

 

 向き合うことが怖い、ということですが、作中で怖いことと言えば、「人と違うことやそれにより嫌われることへの恐れ」が登場していました。

 

 ここを繋げると、「向き合う本当の私」とは「人と違う私」であると考えられます。特に、昔の映画や小説が好きな私、ということでしょう。

 

私じゃない完璧な誰かには

もうなれなくたっていい

偽るのはおしまい

 

 ここで注目したいのは、「私じゃない完璧な誰か」とは誰か?ということです。

 

 ここの解釈に随分悩みましたが、私が提案したいのは「私じゃない他人」ということです。

 

 そのまんまじゃねーかと怒られそうですが、私じゃない、というのを馬鹿正直に受け取って、しずくちゃんではない他人(例えば同好会メンバー)と考えます。

 

 そして何より私が言いたいのは、「人に嫌われないために行っていた良い子のフリ」をするときの「良い子」は完璧な誰かではなく私そのもの(=しずくちゃん)なのではないか、ということです。

 

 これは、「この世界は演劇そのもの」という世界観を援用することで、しずくちゃんの中から生まれたキャラは全てしずくちゃんであり、それは「良い子」をも含むと言える、と考えています。

 

 従って、この歌詞はしずくちゃんの「良い子」を否定するものではない、ということです。

 

 じゃあ、「良い子」を否定しないのであれば、しずくちゃんは何も変わっていないのか、というとそうではなく、しずくちゃんの「良い子」を表現する際の心の向き(積極or消極)が変化しています。

 

 つまり、以前は「良い子」として偽っていたが、今は「良い子」を演じている、ということです。*5

 

絶え間なく 溢れてる

私だけの思いを

もっと紡ぎたい

(中略)

恐れも弱さも全部

こぼれ出す声にのせたら

 

 「私だけの思い」について少し補足すると、この思いというのは「曝け出したいという思い」に加えて、「曝け出したいが怖い・逃げたいという思い」も含まれているのだろう、ということです。

 

 このことが、後半の「恐れも弱さも」以降で表現されているように思います。「溢れる(あふれる)」と「こぼれ出す」が対応していそうです。こぼれるは溢れると書きますしね。*6

 

 さて、cメロに参りましょう。

 

世界でひとりきりの

私になる覚悟なら

 

 「ひとりきり」というのは、「曝け出した結果」であると考えていて、つまり、他の誰かのキャラで自分を覆う(=真似をする)のではなく、自分のキャラをありのまま表現することで、たった一人の私に出会える、ということであると思っています。

 

 ここで念頭に置かなければならないのは、「本来、人は他者と完全に同じではない」ということが前提になっているということです。(当たり前のようにも思いますが、改めて意識しておきたいことなのです。)

 

 この前提の下で、他者のキャラを借りずに、皆んなが皆んな、自分そのもので勝負すれば、その時私はオンリーワンの存在であることになる、という論法です。

 

 そして、重要なのは、このキャラというのは何も1種類ではないということです。良い子のキャラや頑固で意地っ張りなキャラなど、様々なキャラが一人の人間に含まれていて、その全てのキャラをまとめ上げる存在としてたった一人の私、ということなのです。

 

 また、このたった一人の私に出会うというのが「"Hello, This is me"」という事なのでしょう。

 

 

余談

 しずくちゃんと同好会メンバー(主に1年生)との関係性について、関連した事柄を述べておこうと思います。

 

 アニガサキ8話で、璃奈ちゃんは「今のしずくちゃんも、しずくちゃんだよ。」ということを言っていましたね。

 

 これは、良い子で他人に心を開かず、頑固で意地っ張りなしずくちゃん全てがしずくちゃんだよ、ということなのでしょう。

 

 先程も述べた通り、しずくちゃんはSolitude Rainで「良い子」を否定したわけではない、と考えましたが、これは璃奈ちゃんの台詞とも合致するわけです。

 

 また、しずくちゃんが良い子として偽ることを初めたのは、人と違うと思われることが怖い、という感情があったからでした。

 

 つまり、「人と違うと思われることが怖い」と感じなければ良い子を偽る必要はないということかもしれません。

 

 そして、この「人と違うと思われることが怖い」と思わなくてよい環境として、違いが認められていることが明らかな同好会がまさにそうなのかも、ということです。

 

 そう考えると合宿回で鬼ごっこや仮装に乗り気だったのも頷けると思うのです。*7

 

 

さいごに

 さて、ここまでアニガサキ、特にSolitude Rainを軸に考えてきたわけですが、私が思うにアニガサキではしずくちゃんの自我や信念について描かれたものの、どういうスクールアイドルになるのかといった、スクールアイドル観についてはあまり描かれていないのではないか、と。*8

 

 また、アニガサキ8話でしずくちゃんが演劇を初めた理由として、「偽るため」ということにスポットライトが当たっていますが、「昔の映画を見ていたこと」もその理由であると璃奈ちゃんに話してはいたんですよね。

 

 アニガサキ第13話において、ノリノリで演劇をするしずくちゃんの姿を見るに、演劇が好きなしずくちゃんという部分はスクスタと同じなのではないか、と思うのです。*9

 

 そう考えると、アニガサキではしずくちゃんの自我・信念についての描写が増えただけで、スクスタ・アニガサキ関係なく、しずくちゃんの演劇好きな部分と(アニガサキではあまり語られていないが)スクールアイドルの部分は、ある程度統合できるのではないか、と思うのです。

 

 ただ、スクスタでは、昔から演じることが好きで演劇に夢中になっていた、というしずくちゃんにも、「偽り」という行為が過去にはあったかもしれない、と考えることになります。しずくちゃんの演劇に心を躍らせて、目を輝かせている姿を思い浮かべると、かなーーーーーーり心苦しいんですけどね...

 

 でも逆にアニガサキのしずくちゃんにも演劇が好きで夢中になっていた瞬間があったかもしれない、と考えることにもなりますので、多少の救いはあるかもしれないです。

 

 もはや妄想の域に達していますのでこれ以上は止めておきますが、キャストさんのお話を最大限尊重すると、これそのものとは言いませんがこんな風に考えていらっしゃるのかなあ、と思ったりします。*10

 

 また、時間が経てば新しい解釈が思い浮かぶかもしれませんし、新たな物語が生まれるかもしれませんので、そうなったらまた書き直すかもしれないですね。

 

 それでは、今回はここまでにいたします。最後までご覧いただき、ありがとうございました。ではでは。

 

歌詞の引用は全て「Solitude Rain/桜坂しずく(CV:前田佳織里)」より。

*1:”おおまかに言って”、スクスタでは演技は楽しいもの、アニガサキでは自分を偽って楽になるためのもの、という捉え方の違いです。

*2:なぜこのように定義できるのかというと、そのように定義しても矛盾を生じず、色んな解釈が上手くいく(と思っている)からです。この定義に至るまでは紆余曲折ありましたが、その過程は省略して結論だけ述べておきました。

*3:この定義を厳密に考えると、偽る対象については何も触れていません。つまり、偽る対象(偽った結果表出するもの)が必ずしも否定されるべきものではないということです。

*4:アニガサキ8話では、人の心に届く歌を歌うには曝け出すことが必要、ということが示されています。なので、「歌いたい」=「人の心に届けたい」=「曝け出したい」という風に考えています。

*5:私が思うに、しずくちゃんはアニガサキ8話以前においても、私じゃない完璧な誰かにはなれていなかったのではないか、と考えています。ただ、以前は、完璧さのためなら私じゃない誰かになることを厭わなかった、そういう心構えがあった、ということではあると思います。「ならなくたっていい」ではなく「なれなくたっていい」と言っていることからも、「なれる(=なることができる)」という言葉自体が(実行するのであれば)未来における行為、つまり未遂の行為というニュアンスを含んでいるように思います。

*6:ちなみに歌詞カードではこの「あふれてる」という部分は、さんずい「氵」と「益」を組み合わせた表記になっています。フォントの仕様によってどちらの表記になるかが決まってはいるそうですが、「こぼれ出す」がひらがなであることも相まって、なんだか不思議に思えてきます。何か意味があるのかもしれません。

*7:良い子として偽ることは無いにしろ、演じることはあっても良いのでしょう。それもまたしずくちゃんなのですから。

*8:アニガサキ8話冒頭でしずくちゃんはインタビューに「皆さんにとって理想のスクールアイドルを想像して、その子になりきる」と話していますが、スクスタでは”しずくちゃん本人”が感動したライブやお芝居が由来のスクールアイドルを演じたい、といった内容の話をしています(キズナエピ7話)。また、「私はもっとわがままに、演じたいものを作り上げる」(キズナエピ20話)とも話していますので、この部分はアニガサキとスクスタで決定的な違いのような気がしています。モヤモヤするわけではないですか、まあ違うんだなあ、ぐらいに思っています。

*9:記事の序盤で言ってたことと違いますけどね。話の流れ上その方が読みやすいと判断してのことでした。

*10:例えば「しずくちゃんのソロ曲はすべて物語のように繋がっていて、『Solitude Rain』もその物語の一部になっています。」【Solitude Rain発売記念】自分の殻を破ることができた大切な1曲。桜坂しずく役・前田佳織里さんが語るTVアニメ虹ヶ咲の楽曲 | 電撃G's magazine.com – ラブライブ!など人気のキャラクター専門誌などでしょうか。がさラジでもお話されていたように思います。ただ、これに関してはキャストさんの真意を掴めていない部分もありますので、読み違えている可能性は感じています。